金沢市野町公民館
なお、「町会」「校下」といった金沢独特の言葉を、言い換えることなくそのまま用いています。金沢の公民館制度や福祉制度について詳しく知りたい方は、金沢市地域福祉計画2008の第1章・金沢の特性(PDF)をご一読下さい
第1章 戦後社会教育の出発
太平洋戦争終結後、文部省は戦後教育の建て直しをはかるため1945年(昭和20年)9月15日に「新日本建設ノ教育方針」を発表しました。その中の社会教育に関する一節を引用したいと思います。
文部科学省「新日本建設ノ教育方針」
七 社会教育
国民道義ノ昂揚ト国民教養ノ向上ハ新日本建設ノ根底ヲナスモノデアルノデ成人教育、勤労者教育、家庭教育、図書館、博物館等杜会教育ノ全般ニ亘リ之ガ振作ヲ図ルト共ニ美術、音楽、映画、演劇、出版等国民文化ノ興隆ニ付具体案ヲ計画中デアルガ差当リ最近ノ機会ニ於テ美術展覧会等ヲ盛ニ開催シタキ意嚮デアル
(現代語訳)
国民道義の高揚と国民教養の向上は、新日本建設の根底をなすものであるので、成人教育、勤労者教育、家庭教育、図書館、博物館等、杜会教育の全般にわたりこれが隆盛を図るとともに、美術、音楽、映画、演劇、出版等、国民文化の発展につき具体案を計画中であるが、さしあたり美術展覧会等を開催したいと考えている。
当時まだ「公民館」という文字はなかったものの、戦後教育の目指す姿勢をいち早く示したことで、現在でも日本の教育史に関する文献の中で引用されることが多いです。
1946年(昭和21年)7月5日に文部次官通牒「公民館設置運営について」が発表されました。これは社会教育の施設として公民館を制度的に規定することを目的として出されました。これ以降、「公民館」という言葉が社会的に認知されたというのが現在の定説となっています。
石川県はこの通牒を受けて、同年8月に「公民館設置について」を各市町村に通達しました。同年12月までに県内に7館の公民館が開館しました。
金沢市では1949年(昭和24年)6月に「公民教育規定」を制定したのですが、それ以前にすでに8つの小学校下で公民館が設置されていました。その後1952年(昭和27年)には未設置だった30の校下に公民館が設置されたものの、その多くが小学校や善隣館などの施設の一角を借りてのスタートでした。
第2章 野町公民館の誕生
野町には1934年(昭和9年)に第一善隣館が設置されました。この施設は福祉活動が主だったものの、社会教育活動も行っており、公民館と同様のものでした。社会教育がまだ珍しい時代でしたので、その取り組みは非常に先進的だったと言えるでしょう。
1949年(昭和24年)6月に金沢市が「公民教育規定」を制定したことから、野町校下の各町会でも男女2名の公民教育委員が委嘱されました。同年7月に野町小学校にて「第1回公民教育委員会」が開催され、委員長に横井藤太郎氏が選出されました。事務局は野町小学校の事務室の一角に置かれ、事務自体も小学校の事務員に依頼していました。当時の委員会は成人式、成人教育講座、社会体育大会の開催を担っていました。
1952年(昭和27年)4月1日、その前年まで公民教育委員長であった高松吉右衛門氏を初代館長として「野町公民館」が誕生しました。これは「金沢市公民館設置条令第一二号」に基づいたもので、当時公民館が未設置だった30の校下と同じスタートでした。ただ、独立の建物はなく、事務局はそれまで同様小学校事務室に置かれていました。
実はこれよりも前に、野町に公民館の設置が検討されていたことがありました。1947年(昭和22年)4月、当時の井村重雄市長は金沢市の社会教育活動の推進を目指して「公民館設置構想」を打ち出しました。この構想は城東地区・城南地区・城北地区の3つの地区にそれぞれ実験公民館を設置し、5年計画で全校下に公民館を設置するというものでした。
このとき、城南地区の実験公民館の設置候補として挙げられたのが、実は野町にあった第一善隣館、今の野町公民館がある場所なのです。野町以外では、当時消防会館があった石引町、善隣館があった森山町でした。しかし、当時の民生委員会から善隣館と公民館の同居に対して反対意見が上がったことなどもあり、公民館の設置は断念されたという経緯があります。
1954年(昭和29年)4月、野町小学校の旧西校舎の払い下げを受けて活動していた「第一善隣館」の2階の一室を借りて半独立を果たしました。ただ、この第一善隣館への移転には民生委員会の中に少なからず反対意見がありましたが、初代公民館長である高松氏が第一善隣館の館長を兼務されていたため実現しました。
1960年(昭和35年)9月に善隣館の1階が空いたことから、その部屋を改修して公民館専用の事務室と応接室をそれぞれ確保しました。しかし、善隣館の一角を間借りする形は変わりませんでした。
第3章 野町会館の建設に向けて
公民館専用の事務室と応接室を確保したものの、やはり様々な活動を行うには不便な状態でした。ただ、独立した建物を求める声が関係者の間から挙がるものの、100坪を超えるような用地を野町で確保することは困難でした。
善隣館の敷地は市有地だったことから、善隣館の敷地内への建設も考えられたものの、保育所の運動場が必要だったことからこの計画も頓挫してしまいました。しかし、善隣館の建物自体が旧野町小学校の木造校舎だったため、老朽化が激しく、いずれ改築する必要がありました。
活動に必要な部屋を求める公民館と、老朽化した施設の建て替えを考える善隣館。互いに思惑を抱えながら、1960年(昭和35年)に合同会議が設置されました。侃々諤々の議論の末、善隣館を取り壊し、その跡地に善隣館、保育所、公民館の3つの施設が入居する「野町会館」を建設することで合意が形成されました。
合意形成後、野町会館建設委員会(委員長:校下町会長連絡協議会長)が組織され、その中に建設実行委員会(委員長:野町公民館長)が設けられました。各委員会は建設に向けて、具体的な活動に入ることとなります。
第4章 野町会館の完成
保育所や公民館といった異種の団体が共同で入居する施設であることから、その建設資金の調達には一苦労がありました。1962年(昭和37年)に善隣館長と校下連会長に就任した新保義久氏は、公民館長の後藤為次氏と何回も協議を重ねた末、ようやく資金調達について合意がなされました。
建設趣意書を校下の全世帯と校下出身者に配布し、5年計画の積み立て負担金や特別寄付金の依頼が行われました。その動きと並行して善隣館は社会福祉法人格を取得し、低利融資や石川県、金沢市からの補助金申請に取り組みました。
金沢市の「ブロック公民館構想」の変遷の影響を受けて設計が数回変更され、鉄筋コンクリート3階建て、3階には県青少年ホームと市中央公民館野町分室が入居することになりました。
1968年(昭和43年)7月10日、関係者50名ほどが参加して「地鎮祭」が行われました。1969年(昭和44年)2月に竣工、同年4月27日落成式が行われました。
参考資料
金澤・野町の四〇〇年刊行委員会 『金澤・野町の四〇〇年』 2000年(平成12年)1月1日発行
第三部 教育 第二章 社会教育 一、金沢市野町公民館(p.302~p.310)